2017年10月31日火曜日

冥土の土産にはまだ早い



ある歌舞伎役者が、5歳の頃からの好物が資生堂パーラーのクロケットだと言っていたのを観て、母が資生堂パーラーのクロケットが食べてみたいと言っていた。

母は、今年65歳だ。

それではたまの孝行にご馳走してあげよう、と、銀座の赤いビルへ。
私は、ずっと資生堂パーラーのカレーが食べてみたかった。

ギャルソンが、スッと引いてくれた椅子に座り、さりげなく周りの席を見渡せば、品が良い老夫婦や、艶の良いスーツにポケットチーフまでバッチリのビジネスマンたちなど。
そこそこ良いものを食べる機会はたまにはあれど、こういう雰囲気のレストランには、なかなか来ないので、母はやや硬い表情。
私は舞い上がって、グラスやテーブルクロスやバッグを引っ掛ける金具など全てに資生堂のロゴが入っているのを見入る。

件のクロケットも、カレーも少しずつ味わえるコースを選んだ。
最初のスープでは「美味しい」と言いつつ母の顔はまだ硬く、次の念願のクロケットでは、敷かれたトマトソースを余すことなく付けながらしみじみと味わい、メインディッシュでは、硬さもほぐれ饒舌に料理についてしゃべる。
しかし最後のカレーを一口入れた瞬間は、言葉より雄弁に飛び出しそうなほど見開いた目が語っていた。

「とろける!」とまるでベタな食リポートのようなセリフ。
確かに柔らかなビーフと濃厚ながらしつこくないカレーソースは「とろけた」。

母は、「もう死んでもいいわ」と言い放った。何を言います、生きていればまた食べたいなぁと思い出すに違いない。


                        (資生堂パーラー/銀座)